初代天皇、神武天皇の東征と阪南市について。その3

2話で完結しようと思っていましたが、「その2」で触れました、阪南市の長楽寺についてもう少し深堀しておきます。

男里川の上流、男里川と泉南市の金熊寺川が合流するところより少し山側、平野台の湯やゴルフ場の横にあります。というよりゴルフ場も温泉も、もとは長楽寺の敷地だったらしいです。

階段を上がると参道の両脇にはたくさんの石像が両側に立ち、両側の木々が凛とした空気を醸し出しています。

すごくすがすがしい空間です。

立て看板がありましたので内容を写します。

長楽寺-平野寺跡(真言宗)

創建などについては明確ではありませんが、縁起については以下のようなことが記されています。奈良時代に行基によって開設され、七堂伽藍の巨利を造り一寸八分(約5.5㎝)の胎蔵大日如来を安置したということです。その後、天正13年(1585)に豊臣秀吉が紀州の根耒寺を攻めた時にこの寺も焼かれ、伽藍がことごとく灰になったということです。一方、江戸時代に著わされた「泉州誌(せんしゅうし)」とうい泉州の地理を扱った書物にも「昔は金堂、大日堂、白山社、大門及び六坊あり」と記されており、かなりの大寺院であったことが伺えます。実際に山内からは平安時代から鎌倉時代のものと思われる軒瓦や鬼瓦が出土しています。そのうち数点が町教育委員会で保管されています。また、この寺の本尊である十一面観世音菩薩像は弘法大師の作と伝えられており、天正の火災のときには単身向かいの松の木に飛来したことから、この松を「影向の松」と称されるようになったという伝説も残っています。

伝えを読む限り、もとは相当大きなお寺だったことが分かります。上の写真は前回お伝えした神武天皇の七塚のうちの一つです。

今回ブログの内容は、少し神武天皇からは外れましたが、総じて阪南市の文化遺産しっかり子ども達に伝え、大切にしていきたいと思います。

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